篠原梵と口語俳句


 昭和俳壇に彗星のごとく現われた篠原梵は、昭和50年秋、松山に帰省中急 逝した。愛媛新聞に載った親友八木絵馬氏の追悼文は、梵俳句をこう評している 。

 鋭い感覚、あふれるばかりの抒情性をきぴしく制御して生ずる迫力、しかも それを表現するのに、定型を基調としながら、独自のデフォルメを加えて、近代 的で斬新なリズムを編み出した。

 篠原梵は、死の前年の昭和49年秋、全句集として『年々去来の花』を刊行 している。この句集には、第一句集『皿』(昭和16年刊)の340句と第二句 集『雨』(昭和28年刊)の391句に、その後の144句と更に昭和17年の 中北支の旅で得た44句も加え、計919句が収録されている。なお遺稿集『葉 桜』に採録された『年々去来の花』以後の41句があるので、これらの960句 が篠原梵の俳句のすべてである。このなかで私が日頃愛唱しているのは、次の句 である。

 水筒に清水しづかに入りのぼる

 梵作品には、日常生活をうたいあげたものが多く、特別なところから取材し てはいない。この句も、身近なものを、鋭く深く観察し、曖味なものを除去して いる。作者の精神がよく集中されており、言葉が確かなのである。座五の「入り のぼる」といったところに特に作者の工夫があり、作者の感動が強く表出されて いる。この句は、確かに十七字でまとめあげてはいるが、従来の五七五定型とは 違って、座五が「入り」と「のぼる」の二音と三音に切れており、切れ字の「か な」に匹敵する効果をあげている。意味の上では、「水筒に清水しづかに入り」 と「水筒に清水しづかにのぼる」と二つに切れ、水筒の底に溜っていく水と、そ れへ落ちていく水とが出会って鳴っているのを、読者は生きいきと聞くことがで きるであろう。
 篠原梵は、明治43年生まれ。松山の小学・中学・高校を卒業し、昭和6年 東大国文科に人学する。松山高校俳句会では、川本臥風先生の指導を受け、上京 後は、臼田亜浪に師事する。亜浪の「石楠」は、楠本憲吉氏によると、中間派と して位置づけられている。「ホトトギス」派と碧梧桐、井泉水らの一派との中間 に位置するというのである。第一句集『皿』は、昭和16年9月の発行なので、 収録された340句は、ほぼ十年間にわたる作句活動のなかから選ばれたもので ある。この十年間の梵は、松高から東大へ進み、卒業後は、中央公論の編集部員 となりジャーナリズムの世界にいた。彼の天賦の才能が俳壇で輝くのは、大学を 卒業した昭和9年頃からで、昭和14年改造社の「俳句研究」の座談会に、草田 男、楸邨、波郷の三人と出席したときが頂点となる。司会は、山本健吉であった 。
 この時代に、いわゆる梵調という近代的で斬新なリズムを編み出したのであ る。俳句の十七音を柔軟に活用し、独自の破調を生み出したのである。主として 座五に彼の工夫がこらされている。五七六、五七七となることが多い。

 宵寒の背中を吾子のつたひあるく
 水底にあるわが影に潜りちかづく

一句の最後に至るまで気を抜いていない。座五に強い感動がこめられているの で、五七五が五七六、あるいは五七七となるのである。しかし梵の破調は、定型 に反発し、意識的に定型を崩しているわけではない。やむを得ず破調となったの である。近代的な感覚や内容を表現するために、新しい言葉が必要となったので ある。近代俳句は、東大出身のインテリが指導してきた知的な俳句である。その 意味では梵俳句も、決して傍流ではなく、近代俳句の本流といえる。

 扇風機止り醜き機械となれり
 葉桜の中の無数の空さわぐ

 いずれも知的で、新鮮な感覚の句である。扇風機の動と静の対比、葉桜と空 の対比が鮮明で、作者の眼が確かである。冷徹とさえいえるのである。それでい て、作者の強く確かな感動が読者の心にじかに伝わってくるのである。

 冬日蹴るくぴれのふかき勁き足
 吾子立てり夕顔ひらくときのごと揺れ

 梵は、草田男、楸邨、波郷と並んで、人間探求派といわれたが、そういった 人間臭さが、吾子俳句という形で現われ、世の注目を浴びた。
 第二句集『雨』は、昭和16年から昭和24年末までの391句を収録して いる。この8年間に、中央公論を止め、郷里の愛媛青年師範教授となり、また元 の中央公論に戻っている。この句集では、難解であった句が平明となるが、一層 深みを増している。私自身が愛唱する梵俳句の多くは、この時代のものである。

 稲の青しづかに穂より去りつつあり
 蚊が一つまっすぐに耳へ来つつあり
 水筒に清水しづかに入りのぼる
 鯉幟黒き片目をして廻る
 誰か咳きわがゆく闇の奥をゆく
 枯草の一人の幅の径下る

 『雨』以後の作品は、「中空」と題して全句集『年々去来の花』のなかの最 後を飾っている。この時代には私の愛唱する句が少ない。

 シャボン玉につつまれてわが息の浮く
火にくべる残菊花ぴらから燃える

 「中空」時代の梵は、たしかに作句活動が停滞しているが、私たち後進に大 きな問題提起をしてくれた。人間として最も大切なことを考えさせてくれるので ある。長らく作句を怠っていたのは、第一に生活の多忙さからである。中央公論 編集長、出版部長等の激職を歴任している。芸術という隠れ蓑の中で怠惰な生活 を送っていたのではない。社会人としての職業をおろそかにしない立派な人生を 送っていたのである。
 もう一つの間題提起は、口語俳句の試みである。

 北極星またたく私はまたたかぬ

 この点について梵自身が語っている文章があるので、句集『年々去来の花』 別冊の『径路』のなかから次の文を、すこし長くなるが引用してみよう。

 俳壇人といふのも、文章を書くときはかなり普通のことばで書くのに、俳句 作品となると時代ばなれ、あるひは日常ばなれをする。お互に変だとも気づかず 、または思はず、さうしてあやしまない。俳句結社が反社会的集団ではないのに 、歳月が経てば経つほど、世間ばなれをしてゆく文語体で物事をあらはそうとす るこの創作活動をどう考へてゐるのであらうか。これはをかしいのではないかと 疑ってみたりしないのだらうか。日常普段のことばであらはすのでないと、把握 することのできない、言ひあらはすことのできない何物かを逃がすことになるの ではなからうか。新しい感覚や角度が見えて来ないのではないか。このようなこ とを寄贈された俳誌を見てゐて考へることがある。そこで、自分自身はどうなの か間題になる。
 平常のことばで作らないといけない。口語体でつくるのがほんたうである。 八木と山あるきをはじめて、ときどきにつくる俳句はさうしようとつとめて来た 。「中空」に収めた句のうちの半分くらゐはみなそれを心がけてつくったもので ある。……いつの時代でも、先輩は後輩の前に立って、次ぎの時代への橋渡しの 役目をするのが建前である。さういふ気持で「中空」のなかの半分の口語表現の 句を残さう、それらが自分自身でできた精一杯のところであると思ふ。これ以上 はもう自分にはできない限度である。

 「生活と俳句」「文語と口語」という難しい間題をもう少し明らかにするた めに、梵を、波郷と比較してみよう。

 バスを待ち大路の春をうたがはず 波郷
 雁やのこるものみな美しき
 霜の墓抱き起されしとき見たり

 扇風機止り醜き機械となれり 梵
 葉桜の中の無数の空さわぐ
 水筒に清水しづかに入りのぼる

 これらは、二人の代表句といわれ、私も好きな句である。波郷の句には、た しかに人間臭さや境涯的なものがあるが、日常的な社会生活の匂いがとぼしい。 「雁」、「霜の墓」「バスを待ち」といったところには、現実の社会で動いてい るという生活感情がない。さらに形式の面から見ると、波郷の句は、文語定型を 崩すことがほとんどない。その可能性の限りをつくして詠いつづけている。切れ 字の働きも確かである。波郷には、俳句が自分で終ってしまうならそれで良いと いう決意がある。妥協によって俳句の延命を願っていたりはしない。詩は、結局 自分一人のものであるという潔さがある。
 波郷と比べると、梵の「扇風機」、「葉桜」、「水筒」は、生活感情が豊か で、作者の活動的な生活を充分に知ることができる。もちろん私は、どちらの行 き方が良いのか、などということを問題にしているのではない。波郷、梵それぞ れ自分に与えられた人生を歩んだにすぎないと思っている。梵の句には、独自の デフォルメがある。日常身近なものを詠うことによって、また新しい感覚や内容 を詠うために、梵調といわれる新しいリズムが生まれなければならなかったので ある。梵の現実を見る眼は、きびしく確かである。そこから生まれた近代的リズ ムなのである。従ってその行きつくところは、当然口語俳句ということになる。 新しい現代的内容には、当然口語がふさわしいであろう。もちろん現実には、昔 からの変わらぬものがあるので文語俳句を否定することはできない。
 梵の作句態度は、未知の世界へ一人で向かっていく勇敢な精神に支えられて いる。波郷も梵も、まるで方向が違っているが、一人でひたすら俳句に立ち向か っているという点では、違いは全くない。どちらが良いというものではない。俳 句作家はみなどちらかの道を歩んでいる。自分に与えられた道を歩んでいるにす ぎない。別れ道にさしかかったならば、どちらかを選択するのである。選択の決 意は簡単で、好きな道を選べばよい。どちらを選択しても結局同じで、ひたすら 一人で俳句の道を歩きつづけなければならないのである。梵の俳句は、未来へ向 けての一方の明るい道をさし示してくれる。私たちは、梵の俳句を、あるいは波 郷の俳句を超えて、未来の俳句へ向かって進んでいかねばならないであろう。