季感
<ココナツの甘き風ふく布哇の地 一史> 「甘き風ふく」は、俳句では、ユニークですが、とてもいい表現ですね。 季語はありませんが、季感はあります。夏らしい俳句ですね。 <岩窟の水滴を頭に阿弥陀仏 真佐子> <岩窟の滴りを頭に阿弥陀仏>添削 名詞の多い句ですが、それを生かして、しっかりした句に仕上げましたね。 季語がありませんので、夏の季語「滴り」を入れましたが。 <梅雨はげし音さまざまに重なりぬ 泰子> 「梅雨」をうまく表現しましたね。音の重なり、それも「さまざまに」と 見たところが成功のポイントです。 <子を起こす声聞こ来る柿若葉 けいじ> <子を起こす声聞いている柿若葉> 添削 生きのいい若者のいるご家庭が「柿若葉」の働きで見えてきますね。 <挙手の手の明るく動く更衣 晃> 季節の喜びをうまく表現しました。
切れ字
<ふる里の嶺の蒼きを描きけり 晃> 作者の思いを言い切った句。切れ字の「けり」が効きましたね。「蒼き」は、 ものの本源を表現するのに相応しい言葉。俳句は、日本の心のふる里です。 <梔子は雨筋ぬってかほりけり 緑丘> <梔子の雨筋ぬって香りける>添削 静かな句。静かな日常。静かな心境。満たされるものがありますね。 自然の恵みであり、俳句による充実感ですね。 俳句では、限定の「は」を避けます。「の」は、ここでは、切れ字の 働きをします。強い切れ字の「けり」を和らげて「ける」にしました。 <薫風や修学旅行の子の発ちて なべ> <風薫る修学旅行に発つ子らに> 添削 切れ字の「や」の使い方にご注意。接続助詞の「て」で句を終えた(切った)のも 問題です。高級な言葉のテクニックを使っていますが、もっと素直に。
写生
車輪梅の句についての添削、有難うございました. (1)<虻飛んで短い晴れ間車輪梅> と添削し作り直して頂いた方が、私のもとの (2)<車輪梅雨の合間に虻誘う> よりも客観的な描写になっていると思いました。 (2)では、シャリンバイの花が主体になっていて、それが虻という対象を惹きつけている、 という私の見方をそのまま明示的に表現しました.それに対して(1)は、虻が飛んでいる という出来事と、シャリンバイが晴れ間に咲いているという出来事の間の関係に関する作者 の解釈は明示的には表現されていませんね.ただ、その2つの出来事に関係があるというこ とだけが暗示されていますね.だから、花(=主体)が虻(=対象)を惹きつけていると見 るか、あるいは虻(=主体)が花の蜜(=対象)を求めて飛んできていると見るかは、読者 に任されているわけですね.なるほど、これが「写生」というものかなあと思いました.た いへん為になりました.感謝しています.(中川樗枝) <車輪梅雨の合間に虻誘う 樗枝> <虻飛んで短い晴れ間車輪梅>添削 中川樗枝さんがご理解いただいたように、この添削は、先ずは写生の問題です。 さらに深く入ると、切れ字の問題があります。「晴れ間」で切れていますので、 「虻」と「車輪梅」との関わりが不即不離となります。日本の思想では、 「不即不離」、「物心一如」、「色即是空」といった理論の理解が重要です。 「虻」は、晴れ間が短いので、蜜を探すのに懸命です。「車輪梅」も生殖の ために「虻」の助けで、花粉を運んでもらいます。生きるためには、「虻」 と「車輪梅」は、不即不離なのです。 「ビジネスの世界」と「私の世界」も不即不離です。夫婦や親子も不即不離。 これらの共生が自然の原理なのです。この当たり前のことが、今の日本では、 分からなくなっています。素直に物を見る目、写生の心を失っているからでしょう。
リズム
<夏の夜の弾む会話に酔い早く 京子> 優しい心が見えてきます。句の内容からではなく、おそらく句のリズムから 感じ取れるのでしょう。言葉の流れが良いのですね。
ひらがな・カタカナ
<あじさいがうすむらさきにももいろに 緑丘> 小さい子たちに歌って聞かせたい句。ひらがなが成功しました。 大人が作った童謡はありますが、大人が子供たちに作った俳句は あまりありませんね。 <梅雨晴れや昔のままのタクトなり けいじ> <梅雨に入るキーボードの音軽やかに 良一> <道草の子らへプラムの熟れはじむ 泰子> 「タクト」、「キーボード」、「プラム」といった片仮名が生きています。 内容次第ですが、フレッシュな感じを出すのに効果があります。 <花アカシヤ洋画の一コマゆれて消ゆ 真佐子> <クレソンは異国の川で花咲かし 緑丘> 二句とも解釈を詰めていきますと、少し難しくなりますが、 片仮名を使い、「洋画」、「異国」といった日本と違う風景 を呼び出したところがいいですね。重苦しさからの開放です。 伝統文化は重苦しいですからね。 外来語の片仮名を嫌う人が多いですが、日本語の文字は、すべて借り物です。 平仮名、片仮名も中国語から作りましたね。日本語の本来の文字はありませんので、 どんどん外国語を取り入れて、日本語を表現豊かな言葉にすべきでしょう。 日本語はとても豊かな言葉です。平仮名は、大和言葉に相応しい表記です。漢字で は言い表せない感情を表現が出来ます。 <とうさんとおなじひやけのてをつなぐ のぶゆき> <かあさんがきったすいかのいいにおい のぶゆき> 私の「ひらがなはいく」は、もともと子ども達のために作ったものですが、大人の ための前衛俳句(新しい俳句)として読んでいただいても結構です。
口語表現
<新ジャガですかと足を止めて鍬をのぞく 晃> 日常をいきいきと描くには、口語表現が合いますね。 <これを薫風と言うのかバスを待つ けいじ> 自由なのがいいですね。心が開放されています。
詩があります
<らっきょうの白き眠りの瓶の底 なべ> 「白き眠り」は、いい表現です。詩があります。「瓶の底」で句を きっぱりと終えているので、句の座りがとてもよくなっています。 <皿の上あおきブドウ三粒あり 緑丘> <皿の上にぶどう三粒あり青き>添削 イメージの鮮明な句。生活の中に詩があります。 上は(え)と読ませます。 <紫陽花の谷に埋もれ義母が行く 虞洛> <紫陽花の谷に埋もれ母が行く>添削 「義母」と「母」とを厳密に区別しないのが詩です。 義母を実の母のように思ってしまうのが詩です。 ここが日常の感覚と違うところで、科学とも違います。
取り合わせ
<シャガールの青の煌く夏怒涛 登美子> 「シャガール」は、「夏怒涛」のように強くはありませんが、この取り合わせには、 不思議な雰囲気がありますね。
生活の中での喜び
<月下美人に蕾が来たよと庭の妻 けいじ> 身近な生活の中での喜び。これ以上の喜びはないと思う。 <明るく晴れて小鳥の囀り窓越しに 越子> 作者の心の弾みが快い。日常生活の充実、その快い緊張。 <新じゃがの茹で上げてまだ野の匂い なべ> 「まだ野の匂い」がいいですね。「新じゃが」の「新」と「まだ野の匂い」 の「まだ」とが、うまく響き合って、句の力を強めています。平明で、しか も力強い俳句です。なべさんの日常がそうなっているのでしょう。よい俳句 は、よい生活から生まれてくるものです。 [推考] 私の好みですが、この句の場合は、「なお」よりも「まだ」を採ります。 「なお」は、「まだ」と比べると、複雑で、難しい言葉ですが、「まだ」 は、平明で、現代語的口語表現に相応しい言葉です。 「野の匂い」には、「まだ野の匂い」とするか、「なお野の匂い」とする かは、あくまでもそれぞれの好みの問題ですが。
学校
<全開の窓から声飛ぶ梅雨の晴れ 晃> <梅雨晴れへ声飛ぶ窓の全開に>添削 学校が生き生きしていますね。子ども達の活発な動きが見えてきます。 子ども達が元気のない民族には、未来がありません。日本にこのような 学校のあることは、とても嬉しいことです。そして、俳句がそのための お手伝いをするのも、とても嬉しいことです。 <朝靄の中足音が走っている陸上練習 孝昌> <初めての虫取り網に子の笑顔 太> <新緑の中天高く飛ぶ球と声 七重> 久万中学校の先生の俳句です。 どの句も明るいですね。読者の気持ちを明るくしてくれるので、嬉しいですね。 先生と生徒が俳句という同じ土俵で競い合っています。 これは、とても素晴らしいことで、なかなかできないことです。
滑稽
<網を手にとれぬ夏蝶を手招きする 孝昌> <網を手に取らず夏蝶を手招きする>添削 作者が狙ったわけではないが、人間味のある滑稽が良い。
<五月雨に黙して通夜の人帰る なべ> 深みがありますよ。季語のあるなしよりも、俳句の深みが川柳との違いですね。 明るくて深いところのある俳句を求めています。
俳句と短歌
<ささゆりの花に滴の音もなく 晃> 一連の「ささゆり」の句は、少し難しいですね。 俳句のイメージが薄く、短歌的なリズムが強いので。 俳句は短歌の発展したものです。俳句と短歌は、最も両立し難いものです。
旅の心
<田水張られ空もこころもそよぎだす 泰子> 東京の旅から戻って少し落ち着きを取り戻されましたね。いい俳句です。 現代人は、芭蕉や山頭火のように現実の旅に出るのではなく、日常生活を確実に 生きながら旅の心(詩の心)を 持つことが大切ですね。 詩の心を高く持ちながら、平凡な日常生活を確実に生きることです。
ヨーロッパと日本
<転調の時指揮棒に光る汗 けいじ> 「転調の時」の一瞬の緊張。ヨーロッパの音楽と日本の俳句が見事に一つになり ました。無理がありませんね。いい句ですね。
日本の心
<大きな顔大きな紫陽花画用紙に 晃> 限られた画用紙、限られた俳句に、大きな世界を描いて、これが日本の心です。 <梅雨の朝一杯のコーヒーに筆軽く 正人> 人間の幸せは、ここにある、と教えてくれる俳句です。 人々が願う極楽は、「今、ここ」の他のどこにもある筈がない、と 日本の心を教えてくれる俳句です。 <紫陽花の澄みわたる色も滴も 拓> 日本文化の簡素、清澄といった良さが見られる句。 <祖母と孫梅酒をつくる声やさし 正人> 「声やさし」は、「楽しさ」でもあろうと思う。「教える」楽しさであり、 「教えられる」楽しさである。梅酒は、日本の伝統的な生活文化であって、 こうした「楽しさ」がなければ、伝わることが出来ない。 俳句もまた然り、である。 <五月闇父と歩いた声がする 晃> 現実よりも真実の大切さを教えてくれます。これが文学の強みです。 人生の手本とする[父]の存在は、とてもありがたいことです。 いま、[父]の精神が求められている日本の社会です。
主体性
<大夏野ぐるりとわれを軸として 登美子> <外は雨中は五月の絵画展 なべ> 私の好きな句です。「大夏野」、「外は雨 」といった大きな背景を捉え、 その中の自分の位置がはっきりしていますね。主体性の問題です。 俳句での創作・創造は、「主体性」ということになります。 ★自分の生の問題と結びつけて所謂主体的に句作するところに現代俳句の特徴がある(西垣脩) <カサブランカの蕾に触れて出勤す けいじ> 日常の何気ない瞬間にも喜びがありますね。これが俳句の強さですが、 この喜びも、主体的に拾い上げなければ、何でもない只事に終わります。 自分の生涯を生かすも殺すも、やはり、その人次第ですね。 そして、この句を 生かすも殺すも、やはり、読む人次第ですよ。
共生
<せせらぎの音をたよりに蛍狩り 和章> 高原の町久万の「せせらぎ」ですね。蛍が生きて行くための良い環境が たくさん残っているのは、とても嬉しいことです。蛍に良い環境は、人 間に良い環境です。
文学上の時間
<草茂る空き地よふいに昔日へ 泰子> 昔を呼び戻すと心は落ち着きます。 俳句という短い形式だからこそ「時間」と「空間」が表現できますね。 これは、たまらない魅力です。 <睡蓮の白咲くときをゆっくりと 晃> 平明な俳句ですが、とてもレベルの高いものです。 レベルの高い読者は「時間」と「空間」を理解します。 レベルの低い読者は理解しませんね。 <夏草や兵共がゆめの跡 芭蕉> <蝶飛べりむかしの時間かも知れず 臥風> 先達の句を思い出しました。
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